○東村山市指定文化財調書
種別 | 名称 | 所在地 | 員数 | 構造形式・由緒・沿革 | 管理者 | 指定年月日 | 備考 |
市有形民俗文化財 | 貞和の板碑 | 野口町4―6―1 正福寺境内 | 1基 | 1 都内最大の板碑(緑泥片岩)高さ285cm、幅55cm、厚さ6cm 2 種子 釈迦・円相・蓮座を配す 3 銘文 貞和5/己/丑/卯月8日/帰源/逆修/(銘文の左右各1行に梵字光明真言を配す。貞和5年(1349)) 4 由緒、釈迦如来の種子と仏生日(釈迦の誕生日)の4月8日の刻があり、釈迦を主尊とする禅宗系のものであり、造立は野口村も一部含まれる宅部郷(現多摩湖町附近)一帯の信仰厚い有力な領主層と考えられるが、定かでない。昔は自教庵(野口町1丁目、経文橋から南へ約100mの場所で今はない。)にあったと伝えられ、後に前川の橋桁に使われた。この表面が裏返しとなって、碑銘が川面にうつって見えるので経文橋又は念仏橋の名がある。これを動かすと疫病が起るといわれ、たまたま、昭和2年5月頃改修したところ、あたりに赤痢が流行したので同年8月法要を営み、現地に移動した。昭和38年保存堂を設けた。 | 正福寺 | 昭和44年3月1日 | 指定番号第1号 |
市史跡 | 浅間塚・境塚 | 本町1―15―11(浅間塚) 本町1―13―2(境塚) | 1 | 1 浅間塚は小高く円墳状を呈し、さしわたし東西約27m、南北約24m、高さ約5m、地積は737m2。この塚の頂上には西宿(諏訪町1、2丁目あたり)の人々が、天保13年(1842)に建てた「村支小社浅間神社」の石祠が祀ってあり、浅間塚と呼ばれている。この石祠は、神社としての取扱いを受けていて徳川入府以後明治9年まで徳蔵寺が管理していた。 2 境塚はもと「大塚」「小塚(今はなし。)」と呼ばれた2基の塚のうちの大塚で浅間塚程度の大きさである。現在は平和塔公園となって塚には平和の女神像が建立(昭和36年)されている。 武蔵野狭山丘陵の村々は近世初頭から中頃にかけて広い秣(まぐさ)場であったが幕府は武蔵野原の新田開発を進めた。延宝・元禄年間には入会地の開こんをめぐって幕藩領主層と自立農民との対立も起こり、延宝8年(1680)には「境目絵図」が作られたりして、その後村々には境塚が築かれ、そのひとつといわれる。 | 東村山市 | 昭和44年3月1日 | 指定番号第2号 |
市天然記念物 | 梅岩寺のカヤ | 久米川町5―24―6 梅岩寺境内 | 1 | 1 都内有数のカヤの大木 目通幹囲約5m 樹高 約30m 樹令 約600年 カヤは一位科に属し、常緑樹で枝多くうっそうとしている。 2 『新編武蔵風土記稿』、梅岩寺の条に「周囲2丈許の古槻或は1丈2尺の●樹、門に入って左右にあり」とあるが槻はケヤキ(現、都指定天然記念物)であり、●はこのカヤを指すと思われる。 | 梅岩寺 | 昭和44年3月1日 | 指定番号第3号 |
市天然記念物 | 万年橋のケヤキ | 恩多町1―1先野火止用水岸 | 1 | 1 野火止用水をまたいだ大ケヤキ 目通幹囲 約6.3m 樹高 約30m ケヤキはニレ科の落葉樹で、巨木になる。市域に多くあって、市の木に指定されている。 2 野火止用水は承応4年(1655)、ときの川越城主松平伊豆守信綱によって、造られた用水路でその開さくの後、土手近くのケヤキが勢よく、そばの土橋づたいに根を伸ばし、向岸に達してあたかも橋のようになっていて、俗に万年橋のケヤキという。 | 東村山市 | 昭和44年3月1日 | 指定番号第4号 |
市無形民俗文化財 | 雅楽・浦安の舞 |
|
| 雅楽は平安時代に宮廷を中心に貴族社会に行われた古典楽で、わが国の古楽と7世紀ころ大陸から渡来した楽舞によって構成された典麗優雅なものである。 八坂神社氏子、野口地域の青年たちの精神修養並びに集団活動の一分野とともに神社祭儀などに奏するため大正13年導入した。 雅楽は「笙」「篳篥(ひちりき)」「竜笛」「羯鼓(かっこ)」「楽太鼓」などの楽器のもとに「越天楽」「五舟楽」「抜頭」「鶏徳」などの曲がある。 浦安の舞は昭和15年、平和を願う御製「あめつちの神にぞ いのる朝なぎの 海のごとくに波たたぬ世を」を女子の舞として、取り入れ継がれている。浦とは海で海(世界)安らかという意。 | 野口雅楽振興会 | 昭和44年3月1日 | 指定番号第5号 |
市無形民俗文化財 | まつりばやし |
|
| まつりばやしは神社の祭礼に、太鼓、笛(トンビと呼ぶ。)、鉦(ヨスケという。)、舞などではやす民俗芸能で江戸末期ころから盛んになり、多くの流儀があったが、現在市内のまつりばやしは全てが重松(じゅうま)流である。 重松流とは、埼玉県所沢の古谷重松が安政年間(1854―1860)に考案し、伝えたものである。まつりばやしの起源は京都祇園ばやしの東下説、伎楽から発した、また里神楽から発展したなど定説はないが、旋律に重きを置いた古い日本独特のリズム音楽である。 市内では氷川神社(秋津町)、熊野神社(久米川町)、八坂神社(野口町・栄町)、金山神社(廻田町)並びに諏訪神社(諏訪町)、稲荷神社(恩多町)の祭礼にはやされる。それぞれの囃子連や保存愛護会によって継承されている。 曲目には「屋台」「昇天」「鎌倉」「師調目」「国がため」などがあり、獅子やおかめ、ひょっとこ、天狐、にんばなどの踊りが加わる。 | 東村山市祭囃子保存連合協議会 | 昭和44年3月1日 | 指定番号第6号 |
市有形文化財 | 秋津神社本殿 | 秋津町5―27―1 | 1棟 | 1 秋津神社は神社であるが不動明王を祀り、「秋津のお不動さま」として知られている。創建は明らかでないが、本殿に祀ってある石造の不動明王像が元禄12年(1699)4月のものであるから、この時には既に鎮座していたものと思われる。 2 本殿は、それから百年以上も経た文化年間(1804―1818)に再建されている。 本殿桁の下部に 文政4辛巳9月吉祥日 奉再建当邑不動尊 武州多摩郡下秋津村 組頭支配人 小俣忠右衛門 同州入間郡藤沢邑 工匠棟梁 杉田藤太夫 藤原政永 とあり、棟礼には文政5年8月で大工長尾三良兵衛等の名が見えている。 神社に対する信仰は広範囲で、新座市、狭山市、練馬区、立川市などに及び、絵馬、剣類など約50点が奉納されている。 3 構造 本殿 間口6尺 奥行5尺 流れ造り 4 彫刻 本殿正面並びに側面には精巧な彫刻が見られる。後面には司馬温公のかめ割り、右面は鶴に乗った仙人、左面は孔子?等極めて美しい彫刻が見られる。 | 秋津神社 | 昭和45年3月1日 | 指定番号第7号 |
市有形民俗文化財 | 武藤良由碑 | 野口町2―32―7(武藤家墓地内) | 1基 | 江戸幕末のころ現在、所在を失っているが野口村に玉泉山常宝寺という寺があり、そこの武藤求馬は維新の際、修験を辞めて神官となったが国学に通じていたので、郷土に至って子弟の教育にあたった。 学制発布の翌明治6年、村民が化成小学校の先生にと頼んだが老齢をもって受けず、自適の生活を送った。明治13年、教えを受けた門人達は当時、高名な文筆の士、栗本鋤雲にこい、良由(本名)翁寿碑記を得て、常宝寺中興開祖行全の塔の前に建てた。台石には「門生中」と刻んである。 常宝寺は聖護院宮末派で天台修験の寺。行全(安政4年11月10日寂)が荒廃していたのを再興し、聖護院宮法親王から権大僧都を賜り、行全の塔が玉泉山門外にありと『狭山之栞』に見えており、この塔が碑の後ろ側の武藤家の墓地にあるから寺は近くにあったものと思われる。 教育史の上から、また宗教史の資料として価値がある。 | 個人 | 昭和45年3月1日 | 指定番号第8号 |
市有形民俗文化財 | 梅岩寺の庚申塔 | 久米川町5―24―1 梅岩寺墓地土手南西角 | 1基 | 1 形状 高さ 110cm 宝塔・笠付方身台石 幅 31cm 厚さ 23cm 2 碑銘(別記) 3 庚申塔は寛文年間(1661―1673)頃から各地に造立され、当市では寛文年間のものが1基清戸道境にあった由であるが現在はなく、寛文の次の延宝のこの塔が、最古のものとして現存する。 この塔は初期のもので青面金剛で邪鬼の彫刻はなく三猿を刻している。 4 延宝5年(1677)の建立で銘の梅岩寺現住とは三世高策大和尚(天和2年7月18日寂)と思われる。 | 梅岩寺 | 昭和46年3月10日 | 指定番号第9号 |
市有形民俗文化財 | 比翼碑 | 諏訪町1―26―3 徳蔵寺板碑保存館内 | 1対 | 比翼碑は双式板碑又は連碑などと呼ばれ、対(つい)になっている板碑のことで2基で1対や1石で2基、3基を彫ったものもある。この比翼碑は2基で1組となっている。延文4年(1359)に造られたもので主尊は蓮座に乗った弥陀三尊で 光明遍照……□以ゐ 逆修 光明遍照……□ひ満ん 逆修 十方世界、念仏衆生、摂取不捨の偈があり男女2人の逆修供養(生前に供養しておくこと。)で、おそらく夫妻であろう。形状はほぼ同じである。 高さ/97cm/95cm/ 幅/28cm/28cm/ 厚さ/18cm/18cm/ この碑は久米川町4丁目白山神社附近の墓地にあったといわれる。 比翼碑は都内には数少なく、近くは立川市普済寺にあるのみで珍しい。 | 徳蔵寺 | 昭和46年3月10日 | 指定番号第10号 |
市有形民俗文化財 | 千体小地蔵尊像 | 野口町4―6―1 正福寺千体地蔵堂内 | 小地蔵尊像多数 | 千体地蔵堂内の桁、梁上に1,000体もの小さな地蔵尊像が安置してあるが江戸期以降の地蔵信仰を物語るものである。 一木造り、丸彫の立像で10cmから30cmのもので、祈願する人はこの小地蔵尊像を1体借りて家に持ち帰り、願いが成就すれば別に1体を添えて奉納しお祀りしたという。 堂内に千体の延命地蔵ましますとして千体地蔵堂という。 像の奉納者は東村山市域はもとより、所沢、国分寺、小平、小金井、東大和、武蔵村山、立川、武蔵野の各市など広範囲に及んでいた。像の背面に願いの事柄、居住地、名前などが記してあり、年号のあるものはわずかだが正徳4年(1714)から享保14年(1729)のものが多い。 昭和9年、千体地蔵堂改修の際には約1,300体あったといわれるが昭和48年855体を数えるにいたり、その後、壇徒たちによって1,000体に充たした。 | 正福寺 | 昭和47年3月31日 | 指定番号第11号 |
市有形文化財 | 千体地蔵堂本尊地蔵菩薩立像 | 野口町4―6―1 正福寺千体地蔵堂内 | 1体 | 木造寄木造りの立像で舟形光背、台座右手に錫杖(長さ1.37m)を持ち、左手に宝珠を持つ延命地蔵尊像で金箔を施す。像高1.28m。 かつては鎌倉期の作(当時、盛行した慶派の仏師によるものか。)かと言われたが、指定に伴い昭和48年、立像修理を行ったところ、台座の墨書銘に文化8年(1811)江戸神田須田町万屋市兵衛弟子善兵衛の作とあり江戸末期のものである。 木造地蔵尊としては貴重なもの。 | 正福寺 | 昭和48年3月31日 | 指定番号第12号 |
市旧跡 | 鎌倉古街道 | 本町2丁目市道245―1号線・244―1号線・久米川町4丁目市道433―1号線付近 | 1 | 5、6世紀頃より大和朝廷による国造りが整い、やがて武蔵国の国府が府中に設けられたが畿内七道のうち東山道は長野、群馬、埼玉を経て、府中へと通じ、いわゆる国衙道(官道)として東村山市域を南北に貫いていた。この東山道をもとに鎌倉時代に発達した鎌倉古街道は鎌倉化粧坂を起点とした上ツ道で、本市域では九道の辻(小平市境)より北へ本町2丁目6地点から西北に入り、久米川町4丁目白山社附近より西武鉄道を横切り、諏訪町1丁目を経て所沢市久米境の勝陣場橋あたりから埼玉県へと続く。往時は芒、萩などの広漠たる武蔵野原を走る一筋の幹線路で沿道には、八坂天王社、白山社、特に天長10年(833)に設けられた旅人の飢や病気を救う悲田処、調(税)や訴訟を扱った公事所、新田義貞討幕の久米川古戦場、久米川宿などあり、市の歴史上、極めて由緒深い。 |
| 昭和48年3月31日史跡、平成24年4月1日旧跡 | 指定番号第13号 |
市有形民俗文化財 | 石造延命地蔵立像 | 廻田町3―23―5 宝珠寺境内 | 1基 | 形状は石造舟形光背浮彫の地蔵立像で高さ84cm。左手に宝珠を持ち、右手に錫杖を持つ、延命地蔵菩薩である。銘文は向って右に「[多]摩之郡廻田村善男女、十一人祈[攸]」左には「于得寛文八戉申年二月吉日敬白」とある。于得は于時(ときにと読む)の誤刻と思われ、江戸期寛文8年(1668)廻田村の男女11人によって造立されたもので本市で最も古い。 | 宝珠寺 | 昭和49年3月27日 | 指定番号第14号 |
市有形民俗文化財 | 一石六地蔵 | 秋津町3―35―3 地蔵堂墓地内 | 1基 | 形状は六角の石柱に蓮座に乗った地蔵立像が浮彫されている。いわゆる六面塔で頭部は圭頭となっていて高さ62cmである。 宝暦10年(1760)と明和3年(1766)の2つの年号が刻まれている。 施主は秋津村の旧家角田氏となっている。 本市域には11組の六地蔵が存在するが9組が6体丸彫の六地蔵で、多摩地方でも数少ない。 | 持明院地蔵堂墓地管理団体 | 昭和49年3月27日 | 指定番号第15号 |
市有形文化財 | 獣脚付蔵骨器 | 諏訪町1―26―3 徳蔵寺板碑保存館内 | 1基 | 須恵質のつぼ形蔵骨器、有蓋で獣脚によって支えられた完全な形をなしている。 総高22cm、高さ19cm、肩幅22.3cm、平底の径11.4cmである。 つぼ内にあった人骨や木炭の放射性炭素年代測定によれば奈良時代末期から平安初期(およそ1200年前)のものである。 古代の厚葬のふうが次第に失われ、大化の薄葬令によって火葬のふうが高官、僧侶などに広がったが、これもそうした地位にあった人のものではなかろうか。 明治40年頃、埼玉県入間郡山口村(現所沢市)の瑞厳寺付近で発見されたといわれ、昭和3年10月徳蔵寺に納められたが、全国に数少なく貴重なものである。 | 徳蔵寺 | 昭和49年6月21日 | 指定番号第16号 |
市旧跡 | 瓦塔出土地 | 多摩湖町4―19―1付近 | 1 | 出土した瓦塔は昭和9年3月に発見され、現在、東京国立博物館に収蔵展示されている。 狭山丘陵の南面、通称「宅部山(標高約90m)」のなだらかに傾斜した地点を開墾中に発見されたという。 瓦塔は奈良時代から平安時代に多く造られたが本市出土のものは高さ1.93mの五重塔で須恵質。瓦塔がいかなる目的で造られたか定説はないが①衆縁勧募説②塔婆信仰説③墳墓標識説などがある。本市瓦塔の意義として武蔵国多摩郡内の崇仏家によるものか、古代の官道「東山道」や悲田処が付近にあったと思われることから、未詳ではあるが古代史の上からみて重要性のある地域であったことと考えられる。 |
| 昭和51年3月31日史跡、平成24年4月1日旧跡 | 指定番号第17号 |
市有形民俗文化財 | 応永の板碑 | 廻田町3―12 光明院境内 | 1基 | 別に法華経読誦塔ともいう。 仏道について志を同じくして縁を結んだ人々を結縁衆とも、結衆とも称し、後世の講中に類似したものだが、この板碑は法華経帰依の130人にものぼる信者が結衆し建立した法華経読誦供養の塔で紀年には応永13年(1406)説と文明8年(1476)説があるが、『新編武蔵風土記稿』には「表に読妙経一百三十六部応永十三年丙戌十六日とありて、左右にあまたの法謚をえれり」とある。『武蔵名勝図会』には「応永の石碑」と題されて、応永とするの確実性が強い。明治初年に調査された『狭山之栞』によればそれ以前、前川橋板に用いられたので折損磨滅したとあり、上下二片となっており、現存総高1.67m上部が欠損し、下部が埋没しているので原形は優に2mを超えると思われる。応永年間この地域の住民の間で活発に法華信仰が行われたかを物語るものである。 | 光明院 | 昭和52年11月1日 | 指定番号第18号 |
市有形民俗文化財 | 旧武藤家住宅主屋 | 野口町3―48―1(北山公園) | 1棟 | 武蔵野の典型的な茅葺民家のたたずまいで、いわゆる整形四ツ間取り、南側にザシキ、デイ、北側にカッテとオクを並列したもので江戸後期から末期に完成した農家として典型的な間取りを示している。現所沢市牛沼より移築したものといわれ、この家屋の旧所在地武藤家(秋津町1―6―3)屋敷内穀櫃(こくびつ)の梁には天保8年(1837)の墨書があった。梁間4間、桁行9間、土間は右側にある右カッテ(構え)で土間とザシキ境には上大黒柱が建ち、土間にも柱筋から3尺ずれて、下大黒柱が建っている。カッテの床は土間の台所に張り出しがあり、ここに流しがある。オクの床ノ間や附書院はこの建物が移されてきた時につけられたものと思われる。東側にウマヤ、モノオキがあるが下大黒柱筋でウマヤ、モノオキのつくりとは分断されており、この部分は移築時につけられた可能性が強い。武蔵野の住まいと生活を示す民俗学的価値は高い。 | 東村山市 | 昭和53年12月15日 | 指定番号第19号 |
市有形民俗文化財 | 新・四国石仏 | 久米川町5―24―6 梅岩寺境内 | 88体 | 四国88ヵ所札所巡り、いわゆるお遍路は四国までの往復の日数を加えると江戸時代、数カ月に及ぶ大変な旅行であり経済的、身体的にかなりの負担で、誰もができるものではなかった。そこで江戸中期頃より石塔や石仏で88ヵ所を造るようになった。これを新・四国石仏と呼ぶが、これは久米川村榎本権兵衛らが文政7年(1824)梅岩寺境内に建立、奉納したもので、多くの人たちに四国巡礼と同じ功徳が得られるように願ったものである。完全に88体として遺されているものは近郷になく、民間信仰史の上から価値ある貴重なものである。石仏の高さは、おおむね38~45cm。 | 個人 | 昭和55年3月1日 | 指定番号第20号 |
市有形民俗文化財 | 富田家の宝篋印塔 | 廻田町4―33―8 小町家墓地内 | 2 | 富田氏は関東郡代伊奈氏の家臣で、元和4年(1618)第3代吉右衛門から、寛政4年(1792)の第8代吉右衛門まで、廻り田村において200石の知行地を与えられていた。2基の宝篋印塔(大は高さ225cm、小は163cm)は風化がはげしいために、小塔の基礎の銘文「●寛永拾九壬三月廿一日紅巖慈周禅定尼霊位」と塔身部の「歸真」が読みとれるだけであるが、小町家文書や伝承や他の古記録から考察すると、江戸時代初め頃の富田家の墓と推定できるので、近世廻り田村の支配関係を示すものとして価値が高い。 なお、富田氏の多くの墓石は川口市の興禅院墓地にのこっている。 | 個人 | 昭和62年10月1日 | 指定番号第21号 |
市有形民俗文化財 | 赤坂の庚申塔付百観音巡拝供養塔・新道碑・道路改修記念碑・石橋供養塔・馬頭観音供養塔・光明真言供養塔 | 多摩湖町2―7―3周辺 | 1基付6基 | やゝ風化しているが明和4年(1767)宅部地区14人による造立で、高さ88cmの笠付角柱型式の塔身に青面金剛像を浮彫りにし、日、月に瑞雲を配し、六臂には左右に宝輪と戟、矢と弓、剣(磨耗甚だしい)の童子を持ち、邪鬼をふまえた左右に鷄をおいて下部に三猿を彫った完形の庚申塔で「山口 くわんおん道」の銘もあって道標をかねている。他の六基とともに往時の宅部地区の人びとの信仰と交通事情を物語る石造文化財群として保存の価値がある。 | 個人 | 昭和62年10月1日 | 指定番号第22号 |
市有形民俗文化財 | 東村山停車場の碑 | 野口町1―41 東村山駅西口駅前広場 | 1基 | 1 櫛形板石の記念碑 高さ 218cm 幅91cm 厚さ 10.5cm 根府川石 2 紀年銘 明治30年(1897)4月 3 題額(篆額)「東村山停車場之碑」 東京府知事 侯爵 久我 通久 撰文 文学博士 重野 安繹 書 熊谷 謙吉 石工 広(瀬) 群鶴 4 銘文の内容 明治22年(1889)甲武鉄道新宿・立川間が開通し、まもなくその国分寺駅と川越を結ぶ川越鉄道が計画された。 明治27年(1894)に国分寺から東村山まで工事は進んだが、柳瀬川の鉄橋が架けられないので、仮設駅久米川停車場をおいて国分寺との間の営業を開始した。 翌28年(1895)柳瀬川の鉄橋ができてまもなく川越・国分寺間が開通し、仮設駅久米川停車場が廃止されることになった。鉄道の駅があるかないかは、その土地の盛衰に関わるものとして小島証作、立川伊兵衛、町田六左衛門、当間勘左衛門らが中心となって東村山停車場の設置運動を進め、村内の人々約250人の土地の提供と資金の寄付(碑裏に氏名・金額を刻む。)を得て、ついに明治28年8月6日に東村山停車場を設置することができた。 中世には、東村山の地は鎌倉街道の要地で、元弘3年(1333)5月に新田義貞の鎌倉攻めのときの合戦場となり、関係者の供養の板碑が徳蔵寺にあり、また、その後において、義貞の子義興義宗兄弟と足利尊氏の戦ったところでもある。明治になって武蔵野も次第に開けて鉄道ができたが、ここに東村山停車場ができたので、やがて東村山は大きな都市となり、人々は多くの福利をうけることになるであろう。 このように考えると、今回の小島証作氏等約250名の人々の努力は、郷土の発展を願い、後の人々に恵みをもたらす点で忘れてはならない偉大な功績というべきである。 5 昭和2年(1927)には西武鉄道村山線(東村山―高田馬場)が開通し、東村山の発展に果たした東村山停車場の役割は重要であり、それを開設するための全村あげての尽力を物語るこの碑は、市の指定文化財として保護し、かつ、市民に理解を求める価値がある。 6 参考資料 『東村山市史』P.674~P.677 | 東村山市 | 平成3年7月24日 | 指定番号第23号 |
市有形民俗文化財 | 八坂神社の大獅子頭 | 栄町3―35―1 八坂神社額殿内 | 1対 | 1 木造金色塗り獅子頭(雌雄1対) 雄 高さ 55cm 幅 46cm 雌 高さ 48cm 幅 46cm 2 横面に巴の紋、その横に「武州多摩郡野口村」と墨書した高さ55cm幅54cm長さ145cmの桐の箱に収められている。 3 箱の蓋の裏に獅子頭を奉納した人と奉納の年月が下記のとおり墨書されている。 櫻井 冨右ヱ門 鈴木 勘左ヱ門 松田 定右ヱ門 五十嵐 喜兵衛 時維 文久三(1863)癸亥年二月十五日 正福寺十五世融峰代新添 4 由緒 八坂神社の祭神である素盞鳴命すなわち牛頭天王は、疫病除けの神として信仰されている。 以前は、疫病が流行ると、この大獅子頭をかぶって村内を廻ったもので、大獅子頭の出る行事は定期的なものではなかった。 祭礼の際などに魔除け、厄除けを目的として大獅子頭を練り歩く風習はいくつか知られているが、八坂神社では現在は、七月の祭礼の時だけ本殿の回廊に奉安されることとなっている。 | 八坂神社 | 平成3年7月24日 | 指定番号第24号 |
市有形民俗文化財 | 白山神社の牛頭天王像 | 久米川町4―41―2 白山神社境内 | 1体 | 1 牛頭天王の石造丸彫坐像 文政二(1819)卯年六月吉日 願主 北久保忠蔵 丈 67cm 座幅 39cm 2 牛頭天王は素盞鳴命のことであり、疫病除けや家内繁栄・招福の神としても信仰されている。 この像の胸には「信心者 当病除」と彫られ、また台座には「村中安全」の銘が彫られている。 牛頭天王の石造丸彫坐像は極めて珍しく、武蔵野地域には類のない優れた忿怒相の石仏である。 この像が白山神社の境内に安置された経緯は詳らかではないが、願主の北久保忠蔵という人はこの土地の人である。 | 白山神社 | 平成3年7月24日 | 指定番号第25号 |
市有形文化財 | 木造薬師如来立像 | 廻田町3―12―7 光明院薬師堂内 | 1体 | 檜材割矧造りの立像で玉眼嵌入。平成19年に解体修理を行い、現状表面は肉身部素地、着衣部黒漆塗り仕上げに改められた。像高77.2cm。 元弘3年(1333)の新田義貞の鎌倉攻めの際に戦火を受けたとの伝説があり、地元では「峯薬師」の通称で信仰を集めてきた。修理によってかつての姿に復された像からは、端整な表情や写実的な衣文表現などに中世鎌倉時代の特徴が良く見て取れ、13世紀後半の作と推測される。 | 光明院 | 平成8年3月6日 | 指定番号第26号 |
市史跡 | 久米川の富士塚 | 久米川町5―6―4 | 1基 | さしわたし東西24m、南北24m、高さ6.1m、地積は526.89m2。 霊峰富士は、山岳信仰の神体として昔からその信奉がはじまり、室町期に入り、行者、修験者を中心とした富士登山が多く、江戸時代になり富士浅間信仰は町民農民の間に拡がり、富士講がつくられ、江戸府内八百八講と呼ばれるほどとなった。江戸後期、行衣の富士登山は幕府によって慎まざるを得なくなったが、代わりとして御師や先達によって運ばれた富士溶岩を据えた富士を模した塚が各地に築造され、そこを登拝し、信仰を守り続けた。講はひと村だけではなく各村にまたがり盛行した。 久米川富士塚は、日立講中らにより明治21年(1888)築かれた。 塚の頂上には富士浅間社の石祠があり「日立講、明治21年4月、入間川先達富山常行」と銘があり、ほかに日立講の碑が2基建立されている。さらに、同年4月南秋津村、北秋津村講中官位講の石碑がある。 富士塚は、江戸後期から明治期に特に盛んになった富士浅間を信奉する富士講の偉大なる所産で、近世、近代の信仰を物語るものである。戦前は、講員が7月登山し、お山で請けた神札を講中に配るなどしたが、戦後は、市域には見られない。 | 東村山市 | 平成8年7月3日 | 指定番号第27号 |
市有形文化財 | 正福寺山門 | 野口町4―6―1 正福寺境内 | 1棟 | 1 正福寺は何度か火災にあっているという言い伝えがあり、江戸期になって再度の復興が行われた。月山禅師は寛文4年(1664)に晋山して、宝永3年(1706・『野口村金剛山正福禅寺世代記』)に示寂するまでの間に諸堂宇(本堂、庫裏か)とともに山門も建てたので、中興とされている(『建長寺史』)。天明4年(1784)の「野口村絵図」には、本堂、庫裏、地蔵堂、鐘楼等とともに、山門が描かれている。 山門は、昭和48年に行われた解体修理の際、親柱●から「元禄十四辛巳年無神月吉祥日建□(者)也、此時住寺號月山(以下略)」の銘文が発見されたことから、建立年代が元禄14年(1701)、月山の代に建立されたものであることが確定した。 2 山門の建築形式は、四脚門で、切妻、昭和48年の修理の際に茅葺から茅葺形銅板葺に改修された。建築様式は禅宗様で、その規模は桁行10尺(3.03m)、梁行10尺で、高さも柱底部から桁下端までで10尺となっている。 屋根はかつては化粧裏板の上に登り梁を架けて茅葺としていたものと考えられる。また、彩色は柱、桁、冠木、束等に朱の痕跡が見られることから、かつては全体が朱で塗装されていたものとみられる。 | 正福寺 | 平成17年4月20日 | 指定番号第28号 |
市有形文化財 | 小町家文書 | 諏訪町1-6-3 | 約5,833点(一括あり) | 1 小町家文書は、近世に廻り田村の名主を世襲した同家に伝来した近世・近代史料である。 多摩郡廻り田村は、東村山市北西部の市内多摩湖町・廻田町を中心とした地域に相当し、狭山丘陵の南側に位置する。廻り田村内の狭山丘陵の谷間を流れる小河川に沿ってわずかな水田があり、その南の広大な武蔵野台地に畑が広がっていた。村内の狭山丘陵の谷間は中世の宅部郷の一部であったと思われるが、同地域の人々が近世初期以来丘陵の南側の武蔵野台地を開発し、畑勝ちの村に転換していった。 廻り田村は、慶安2年(1649)頃『武蔵田園簿』に「廻田日向村」と記され、村高500石のうち田73石5升、畑426石5升とあり、ほかに長源寺領10石があった。寛文・延宝期(1661~1681)に開発した持添新田164石余(代官支配)をあわせ、幕末の村高は674石1斗であった。このほか享保改革期に幕府が推進した武蔵野新田開発のなかで、持添新田とは別に廻り田新田も開発している。この新田は当初廻り田本村に従属していたが、明和5年(1768)に独立し、新田に名主が任命されて別村となった(村高107石4斗8升4合)。 廻り田村は、近世前期以降旗本相給支配の村落となっていた、村高500石のうち旗本中川氏が300石、関東郡代伊奈氏の家臣富田氏が200石を知行した。明治に入ると廻り田村は品川・韮山県等をへて神奈川県に属し、明治22年(1889)東村山村の大字となった。 小町家は廻り田村富田氏知行分の名主を江戸時代中期から勤めたと考えられ、当主は代々九兵衛を襲名した。近世の村政史料が同家に残されてきた。 2 小町家文書は約5,800点のうち近世史料がその大部分を占め、家の私的な史料や典籍等は比較的少なく、そのほとんどが村政史料である。ただし近世初頭の文書はほとんどなく、検地帳等の重要な文書は後世の写本である。これは小町家が名主を勤めた時期と関連があるものと考えられる。 年代としては元和4年(1618)「富田家知行割渡状」が最古ではあるが写本であり、ついで寛文・延宝期の検地帳写や寛文9年から正徳期にいたる年貢請取小手形が見られ、富田家の年貢徴収の一端を知ることができる。寛保2年(1742)近世最大の大水害の時に作成された「当秋作損毛小前帳」があり、作付け及び被害の状況がよく判る。また天明の飢饉の際には再三にわたって「夫食拝借願」が出され、惣百姓が傘連判をした願書も見られる。ほかに享保期の武蔵野新田開発にかかわる史料、享保期から幕末にかけての鷹場や鉄砲改め、明和期から幕末にいたる御用留、近世後期の関東取締出役や改革組合村関係、幕末に一時熊本藩の預かり地となった時期や農兵関係等の史料が見られる。村政の基本帳簿としては、享保期から幕末までの年貢勘定帳等の史料が残るが必ずしも保存状態は良好ではない。かつ村入用帳や村鑑、村議定等の史料が見られ、80点余りある宗門人別帳からは、当時の家族構成や人口動態、階層分化を知ることができる。さらに、貯穀(囲い稗)についての記録も寛政期から幕末までほとんど欠落なく残されている。 | 東村山市 | 平成19年3月12日 | 指定番号第30号 |
市有形文化財 | 當麻勉家文書 | 諏訪町1-6-3 | 約5,184点(一括あり) | 1 當麻勉家文書は、近世に大岱村の名主を世襲し、明治期に戸長・村長を歴任した同家に伝来する近世・近代史料である。 入間郡(明治13年から多摩郡)大岱村は東村山市南東部の市内恩多町を中心とした地域に相当する。大岱村は明暦元年(1655)の野火止用水開削に伴い、開発が始まったといわれる新田である。寛文9年(1669)の検地により村高は148石3斗5升1合とされたが、元禄元年(1688)の村高は197石9斗2升2合となり幕末まで変化がなかった。水田はなく皆畑の村である。 大岱村は近世を通じて幕領であった。寛文から貞享(1684~1688)の史料には多摩郡として記載があり、村名も「大沼田村新田」「大沼田新田」「大怒田新田」などと記されていたが、元禄2年の年貢割付状から統一的に「大岱村」と記載されるようになる。おそらくこの頃から入間郡に属したのであろう。『新編武蔵風土記稿』によれば、元禄の国絵図作成の際、入間郡内の日比田村(埼玉県所沢市)と混同され、多摩地域の大岱村が入間郡に属すことになったという。これは明治13年(1880)に日比田村と交換編入されるまで続いた。明治に入ると大岱村は品川県・入間県・熊谷県・埼玉県などをへて、明治13年に神奈川県に編入され、明治22年(1889)東村山村の大字となる。 當麻家は代々弥左衛門を襲名し、大岱村の名主を勤めてきた。明治以降、戸長・村長・村会議員を歴任し、大正末期から昭和初期にかけて土地経営を中心とする事業も展開した。 2 當麻勉家文書は、近世史料480点、近代史料4,509点、書籍・絵図195点に大きく分けられる。近世史料では、寛文9年・延宝2年の検地帳原本や、寛文9年から元禄期の年貢割付状、宝暦期の村絵図などから、開発の過程をたどることができる。また享保期の新田開発関係史料として、新田場の売渡証文・年貢割付状等が多く残されており、大沼田新田(現小平市大沼町)の開発の様相が詳細に判明する。特に享保21年(1736)の地割絵図は、新田村の地割の様子や所有状況がつぶさに判り貴重な史料である。また、鷹場史料や幕末に村から歩兵を徴発した兵賦関係も比較的残っており、天明年間(1781~1789)に野火止用水に開業した水車営業に関する史料も貴重である。近代史料では、明治5~10年(1872~1877)の布達類や、明治期から昭和期にかけての村の予算書や事務報告書など戸長役場関係の史料がよく残り、東村山村の役場文書も、村長を勤めた関係から昭和初期までのものがよく揃っている。明治5~15年(1872~1882)にかけての地租関係の史料がまとまっており、大岱村の明治13年の入間郡から北多摩郡への交換編入に関する史料も見られる。さらに、自由民権運動の演説の草稿(写本か)も数点存在する。教育文化関係では大岱学校の史料、昭和初期の東京連合少年団の久米川野営関係資料も興味深い。また大正期以後の久米川駅周辺の土地開発に関する文書が大量に保存されている。 | 個人 | 平成19年3月12日 | 指定番号第31号 |
市有形文化財 | 江藤昌明家文書 | 諏訪町1-6-3 | 約1,425点(一括あり) | 1 江藤昌明家文書は、近世に廻り田村の名主を世襲し、近代には戸長を勤めた同家に伝来する近世・近代の史料である。 多摩郡廻り田村は、東村山市北西部の市内多摩湖町・廻田町を中心とした地域に相当し、狭山丘陵の南側に位置する。廻り田村内の狭山丘陵の谷間を流れる小河川に沿ってわずかな水田があり、その南の広大な武蔵野台地に畑が広がっていた。村内の狭山丘陵の谷間は中世の宅部郷の一部であったと思われるが、同地域の人々が近世初期以来丘陵の南側の武蔵野台地を開発し、畑勝ちの村に転換していった。 廻り田村は、慶安2年(1649)頃『武蔵田園簿』に「廻田日向村」と記され、村高500石のうち田73石5升、畑426石5升とあり、ほかに長源寺領10石があった。寛文・延宝期(1661~1681)に開発した持添新田164石余(代官支配)をあわせ、幕末の村高は674石1斗であった。このほか享保改革期に幕府が推進した武蔵野新田開発のなかで、持添新田とは別に廻り田新田も開発している。この新田は当初廻り田本村に従属していたが、明和5年(1768)に独立し、新田に名主が任命されて別村となった(村高107石4斗8升4合)。 廻り田村は、近世前期以降旗本相給支配の村落となっていた、村高500石のうち旗本中川氏が300石、関東郡代伊奈氏の家臣富田氏が200石を知行した。明治に入ると廻り田村は品川・韮山県などをへて神奈川県に属し、明治22年(1889)東村山村の大字となった。 江藤家は廻り田村中川氏知行分の名主を江戸時代初期から勤め、当主は代々太郎右衛門を襲名した。近世の村政史料と近現代の家の史料が同家に残されてきた。 2 江藤昌明家文書1,425点におよぶ史料群は、大別すると近世史料265点、近代史料854点、書籍・絵図306点からなる。特に廻り田村のうち旗本中川氏知行所に関わる村政文書が中心に残り、17世紀中葉の近世前期の良質の史料が見られる。 寛永14年(1637)「関東中悪党取締触書写」は、市内に現存する古文書で最古のものと考えられ、近世前期の幕府法令が村に伝達されたことを証明できる史料である。また慶安4年(1651)「指上申一札之事」は慶安の由井正雪事件にかかわる史料で村の治安を伝えるものとして貴重である。寛文9年(1669)・延宝2年(1674)の持添新田の検地帳からは、小町家文書の検地帳と合わせて、廻り田村の耕地や土地所有の状況が明らかとなる。持添新田(代官支配)の年貢割付状は慶安2年から元禄16年(1703)にわたっており、開発の進展の様相が窺える。 近代史料は大半が家の私的な史料であるが、明治初期の地租改正の書類をはじめ明治期の布達類、大正期の村の予算関係書類など行政関係史料も見られ、在郷軍人会、兵員調や軍事郵便の史料も貴重である。 | 東村山市 | 平成19年3月12日 | 指定番号第32号 |
市有形文化財 | 下宅部遺跡出土品 | 野口町3―48―1 | 約215,000点(都指定有形文化財「下宅部遺跡漆工関連出土品」を除く) | 下宅部遺跡からは、低湿地という環境により、多くの有機質遺物が出土した。特に縄文時代後期・晩期の遺構・遺物として、当時の川の流路に伴う水辺での作業施設や、植物・動物遺体、木製品・漆製品の作業工程に関する道具など、具体的な生業活動や生活環境を復元できる資料が確認された。 また、古墳時代以降の出土品からは、東山道武蔵路との関係や宅部山遺跡出土瓦塔との関係、池状遺構を中心とした遺構・遺物のあり方、石敷遺構や板碑にみられる中世に属する仏教に関わる遺構・遺物など、狭山丘陵周辺の古代・中世史研究に新たな資料を提示する結果が得られた。 この下宅部遺跡の発掘調査による豊富な出土品からは、当時のより具体的な生活様式がうかがえるばかりでなく、当時の自然環境をも復元できることが明らかになり、低湿地遺跡の重要性を知らしめる結果が得られた。下宅部遺跡出土品は、東村山市の原始・古代・中世における歴史的・考古学的価値が高いものである。 | 東村山市 | 平成21年5月7日 | 指定番号第33号 |
市旧跡 | 東京陸軍少年通信兵学校跡地 | 富士見町1丁目2~5番地、7~10番地、12~14番地、16番地、同2丁目1番地、2番地の一部、3~10番地 | 1 | 日本の軍隊に徴兵年齢以前の10代の「少年兵」が現れるのは昭和初年である。第一次世界大戦に登場した飛行機・戦車等を操る技術下士官の養成が急務となり、少年兵の制度が取り入れられるようになった。陸軍における最初の少年兵は陸軍少年通信兵で、昭和8年(1933)、東京市杉並区馬橋(現在の杉並区)の陸軍通信学校内に少年たちの通信技術教育のための生徒隊を設けて少年通信兵制度がはじまった。ただし、馬橋の校舎は狭かったので、昭和13年(1938)に陸軍通信学校は神奈川県大野村(現在の相模原市)に移転となった。 その後、昭和16年(1941)の太平洋戦争勃発で、通信下士官の急速な補給に迫られ、少年通信兵のための独立した学校を設けることになり、昭和17年(1942)4月1日に陸軍通信学校生徒隊を昇格して陸軍少年通信兵学校が創設された。初代校長に末光元広少将が就任、生徒隊は生徒隊長が統括し、中隊長は生徒隊長の命を受け、各中隊の訓育・術科教育を担任した。陸軍少年通信兵学校は、当初神奈川県大野村の陸軍通信学校内に同居していた。その間、東村山町(現在の東村山市)に約53万m2(約16万坪)の敷地を得て校舎建設が進められ、10月23日に新校舎に移転した。正門の前には野火止用水が流れ、松林の中に学校本部・大講堂・生徒舎・通信講堂・機材庫・生徒集会所・医務室・大食堂等が整然と配列された。 昭和18年(1943)10月1日、村松陸軍少年通信兵学校(現在の新潟県五泉市)の創設により、東村山町所在の陸軍少年通信兵学校は東京陸軍少年通信兵学校と改称された。12月1日に11期生、翌昭和19年(1944)6月1日に12期生が入校し、従来の松、竹、梅、雪、月、花に加え、鶴、亀と中隊が増えて8個中隊となった。校長は末光元広少将、小山義巳大佐(後に少将)、小西貞治大佐と続いた。この年の末には校地の拡張が進められ、約66万m2となった。 全国から受験し合格した15歳前後の少年たちは、東村山の地でモールス信号の送受信や通信機の取扱い等の厳しい訓練を受け、寝食を共にしていた。彼らは広大に拡大した戦地に転戦し、通信兵として任務にあたった。また東村山の地で終戦を迎えた生徒も多かった。 昭和20年(1945)4月に特別幹部候補生通信第1期生が入校した。特別幹部候補生は、消耗する兵力増強のため、短期間の軍隊教育で即戦力として活用できる中等学校生徒を対象としたものであった。甲種は選抜で士官に、乙種は下士官になる制度だった。東京陸軍少年通信兵学校には通信兵種の乙種が入校し、少年通信兵と同様の訓練・教育が行われるはずであった。しかし空襲が激しくなると、第12期少年通信兵・特別幹部候補生ともに、大部分の中隊は各地へ疎開し、在校の中隊も通信壕の掘削などに従事することになった。8月15日の終戦により、疎開各隊の帰校を待って順次復員し、同月28日に復員完結となり陸軍少年通信兵の母校としての歴史を閉じた。なお、馬橋・大野・東村山・村松各校での少年通信兵入校生徒は約5,900人に上り、さらに東京陸軍少年通信兵学校では特別幹部候補生約700人を受け入れていた。 関係する資料は終戦後大部分が直ちに焼却処分されたが、一部の資料は当時の在校生・卒業生等により保管されてきたので、その歴史や活動状況についてはある程度判明している。 戦後、東京陸軍少年通信兵学校の施設の一部は逓信省に移管され、高等逓信講習所となり、東京陸軍少年通信兵学校に在校していた特別幹部候補生や教職員の希望者が入所した。その後高等逓信講習所は、中央電気通信学園となり調布市に移転したため、建物は電電公社の社宅や寮として利用された。また、東京陸軍少年通信兵学校の給水施設を利用して、昭和33年(1958)に東村山町の上水道事業の第1号として給水が開始された。そして、外地引揚者寮は敷地の東側にあった材料庫を使用し、住宅困窮者のための更生施設である村山昭和寮は敷地の西側にあった電気講堂を使用した。さらに旧軍用地であることから、広大な敷地は戦後開拓事業のために引揚者や地元農家へ農地として提供された。 昭和22年(1947)実施の新学制では独立校舎による新制中学校の設立が求められ、東京陸軍少年通信兵学校の建物のうち松隊・鶴隊の兵舎等を利用し、昭和22年4月1日に町立東村山中学校(現市立東村山第一中学校)が開校した。その後も、東京陸軍少年通信兵学校敷地内には、市立南台小学校、明治学院東村山高等学校、明法学院高等学校及び日体桜華女子高等学校が設置され、文教的地区となった。 陸軍少年通信兵学校の敷地は、現在の東村山市富士見町1・2丁目の大部分と東大和市新堀1丁目の一部にあたる。当時の施設は現存しないが、陸軍少年通信兵学校正門前にかかっていた橋(第二富士見橋)がほぼ当時の姿を残している。 |
| 平成23年2月4日 | 指定番号第34号 |
市有形文化財 | 熊野神社遺跡出土陶磁器 | 諏訪町1─6─3 | 13点 | 熊野神社遺跡出土陶磁器は、昭和40年(1965)に東村山市立郷土館に寄贈された、日本の中世に相当する時代の中国製陶磁器である。明治39年(1906)頃、熊野神社より約150m南、久米川町5丁目11番地の崖状になっているところを開墾した時にまとまって発見された、といわれており、くわしい出土状況は不明である。現存する資料の内訳は、染付皿8点、青磁皿5点であり、すべて完形あるいはほぼ完形である。なお、これらの資料に関する伝承は残っていない。また、陶磁器出土地点より北東の崖状のところから、数か所の穴が見つかっているが、そこから何か出土したとは伝えられていない。幅は両手を広げたくらいで、その中は6畳くらいの広さになっていたと伝えられており、地下式坑などの施設である可能性がある。 これらの資料は、いずれも中国の明でつくられたもので、12点が15世紀後半~16世紀前半で、外面蓮弁文の1点のみ若干古く、14世紀後半~15世紀初頭のものである。 熊野神社遺跡の類例の一括出土例としては、新潟県新潟市馬場屋敷遺跡例(市指定)、山梨県笛吹市新巻本村例(県指定)、新潟県阿賀野市華報寺経沢例(県指定)、府中市武蔵国府関連遺跡例をあげることができる。これらのうち、発掘調査にともなって発見され、出土状況が明確なものは、馬場屋敷遺跡例、武蔵国府関連遺跡例で、ほかは偶然発見されたものである。 上記の13点の出土陶磁器は東村山市教育委員会が所有しているが、それ以外に染付皿1点、青磁皿1点が同時に出土しており、市外在住者が所有している。東村山市教育委員会所有の13点の陶磁器は、市外在住者所有の陶磁器の複製品2点とともにふるさと歴史館常設展示室で展示している。 | 東村山市 | 平成25年5月1日 | 指定番号第35号 |
市有形民俗文化財 | はなびや人形店押絵羽子板製作関連資料 | 諏訪町1―6―3 | 18,703点 | 東村山市にあるはなびや人形店の創業年は定かではないが、その屋号からも推察される通り、花火の打ち上げや製作を行っていた人形店である。人形店というと人形の製作をしているように思われるが、雛人形や五月人形などの節供人形や押絵羽子板など季節の人形類を扱う店を、人形店と近在では呼んでいる。はなびや人形店でも節供人形については販売のみで、2代目以降、息子である3代目とともに押絵羽子板の製作をしてきたが、昭和60年代以降はほとんど製作されなくなり、現在は人形類の卸販売とともに、祭礼のとき参道などに立てる地口行燈の絵やまつり華の製作販売をしている。 押絵羽子板製作の技術は、埼玉県所沢市で押絵羽子板職人の祖といわれる武藤力蔵氏(明治19年~昭和17年)のもとで修業して習得したもので、埼玉県南部から東京都北多摩地域周辺に流布している系統と同一のものである。力蔵氏に直接師事した職人は、東村山では記録上4人とされ、その内現在も人形店を営んでいるのははなびや人形店のみである。 その流布の背景には、産まれて初めて迎える初正月に親の実家や親戚、知人などが、女児へ押絵羽子板を贈る風習がこの地域にあることによると思われる。この押絵羽子板は正月飾りのひとつとして年末から正月中旬ごろまで飾られ、子どもが成長するといつしか飾られなくなっていく。このような風習自体も少なくなってきているが、昭和40年代生まれまでの女性は多数の押絵羽子板を持っていた。 | 東村山市 | 平成25年5月1日 | 指定番号第36号 |
市有形文化財 | 諏訪神社本殿 | 諏訪町1―4―3 | 1棟 | 1 一間社流造、見世棚造、板葺、間口1.061m(3.5尺)、奥行1.610m(5.3尺) 2 小さい規模の見世棚造ではあるが、その形式は古風で現存する例は少ない。棟札等は発見されていないが、その様式から江戸時代初期の建築と推定される。境内地の縮小や社殿の建て替えなどにより、この本殿は移設を繰り返してきたが、建築当初の姿を現在に伝えている。 | 諏訪神社 | 平成27年3月25日 | 指定番号第37号 |
市有形文化財 | 笹塚遺跡出土縄文土器 | 諏訪町1─6─3 | 1点 | 笹塚遺跡は、市内北東部、秋津町4・5丁目に所在する。梅岩寺付近からの湧水に端を発し、柳瀬川に注ぐ沢の堀という、現在は暗渠である小さな流れに面した台地上に立地している。縄文時代中期から後期初頭にかけての市内最大規模の縄文時代の集落遺跡である。 笹塚遺跡出土縄文土器は、平成4年の秋津町4丁目33番地の発掘調査で、口縁部を下にした逆位の状態で発見された。土器は、ほぼ完形の大型の深鉢形土器で、口縁部の一部のみが欠けている。器高57.6cm、口径40.4cm、底径8.3cm、重量14.0kgであり、長径110cm、短径97cm、深さ64cmの楕円形の土坑(穴)に納められていた。典型的な加曽利EⅡ式(縄文時代中期)の土器で、非常に残りがよいものである。 隆帯と沈線で口縁部に渦巻文、胴部に垂下する磨消帯と蛇行沈線を交互に施文している。渦巻文は7、磨消帯は12、蛇行沈線は13の各単位で構成されている。施文の順序は、口縁部隆帯→縄文LR(縦方向の回転施文)→口縁部の幅広沈線→胴部の縦方向沈線、である。 土器の欠損部の隣接箇所に、貫通している補修孔が1か所、その下に未貫通の補修孔が1か所あるため、この土器は埋設することを目的として製作されたものではなく、煮炊き等で使用した後の再利用で埋設されたものと考えられる。 土器や土器が埋設されていた土坑には骨が含まれていなかったが、縄文時代の逆位埋設土器が土器を棺とした墓である可能性がほかの遺跡での調査例で指摘されている。そこで、土器内の土壌のリン・カルシウム分析を行ったところ、通常の土壌中に含まれる平均値よりも高いリン含量が土器開口部に近い部分で認められ、リン成分の高い内容物があった可能性が推定された。一方、カルシウム成分についてはそのような結果は得られなかった。その理由としてカルシウムが土器開口部から外部へ拡散・流亡してしまった可能性があるが、土器内土壌のみからしか試料採取していなかったため、詳細は不明である。また、骨以外の内容物(胞衣等)が埋納された可能性があるが、笹塚遺跡出土縄文土器が遺体埋納に関わる施設である可能性は高い。 笹塚遺跡出土縄文土器は、ふるさと歴史館常設展示室で展示されている。 | 東村山市 | 令和2年4月8日 | 指定番号第38号 |
(参考)
国指定国宝
指定年月日 | 名称 | 員数 | 構造及び形式 | 建築年代又は時代 | 所在の場所 | 所有者 |
昭3.4.4特別保護建造物、昭4.7.1国宝、昭27.3.29国宝 | 正福寺地蔵堂 | 1棟 | 桁行3間、梁間3間、一重もこし附、入母屋造、こけら葺、もこし銅板葺附、棟札1枚(安政6年屋根組替修覆造営の記がある。) | 室町時代 | 野口町4―6―1 | 正福寺 |
国指定重要文化財
指定年月日 | 名称 | 員数 | 所在の場所 | 所有者 |
大3.8.25国宝、昭25.8.29重要文化財 | 板碑 元弘三年斎藤盛貞等戦死供養碑 | 1基 | 諏訪町1―26―3 | 徳蔵寺 |
都指定有形文化財
指定年月日 | 名称 | 所在の場所 | 所有者 |
平21.3.16、平27.3.16追加 | 下宅部遺跡漆工関連出土品附縄文土器 | 野口町3―48―1 | 東村山市 |
都指定史跡
指定年月日 | 名称 | 所在の場所 | 所有者 |
平27.3.16 | 下宅部遺跡 | 多摩湖町4―3―1の一部 | 東京都 |
都指定旧跡
指定年月日 | 名称 | 所在の場所 | 所有者 |
大8.10標識、昭27.4.1史跡、昭30.3.28旧跡 | 久米川古戦場 | 諏訪町2丁目付近 |
|
都指定天然記念物
指定年月日 | 名称 | 所在の場所 | 所有者 |
昭40.3.31 | 梅岩寺のケヤキ | 久米川町5―24―6 | 梅岩寺 |